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設立40周年記念特集1
設立ドキュメント「広告に真実を」 高い意識と数多の奮闘に支えられたJARO設立

千葉ちよゑ

フリーライター

設立後

JARO丸、出帆!

11月には設立後初の理事会が開催された。

運営に当たる総務、財務、PRの3部会の構成メンバーと審査委員会、業務委員会の構成メンバーの承認、そして苦情処理システムについての承認が行われた。

社団法人としての設立以降の6カ月間は、JAROの業務を軌道に乗せるための準備期間だった。職員はそれぞれ予定されていた配置に着き、業務処理体制を整えていった。

事務局の体制づくりや、それまで日本になかった広告の苦情処理システムの体系づくり、諸会議の委員の委嘱、各種PR資料の制作、公正取引協議会等の自主規制機関との連携、消費者保護行政を主管する各官庁との連絡、といった各種の事業・業務が同時並行的に進められた。

初代の審査委員長は東京大学名誉教授の有澤廣巳に委嘱された。

「広告についてまったく関係がなく、素人である」として固辞する有澤に、「『広告にまったく関係のない人』というのが審査委員および審査委員長の条件です」と、瀬戸は食い下がり、引き受けてもらった。

副委員長に植松 正(一橋大学名誉教授)、委員に伊東光晴(法政大学教授)、三枝佐枝子(評論家)、杉 靖三郎(東京教育大学名誉教授)、柿沼幸一郎(日本銀行理事)、猿谷 要(東京女子大学教授)。

いずれも人格識見ともに当代一流の方々に委嘱することができた。

そして1975年6月、JARO第1回通常総会が開催される。

その挨拶で、評議員会永野重雄会長は次のように述べている。

「ご承知のように、現下のわが国経済は、かつての高度成長の時代から一転して、インフレ、資源エネルギー、環境公害問題等、いくたの厳しい解決すべき難問に直面しております。このような環境変化に対処すべく、今や企業は自らの社会的責任に思いを致し、国民の福祉と公益に直結する新しい経済理念、企業倫理の確立に迫られており、また、その実践に鋭意努力を注ぎつつあります。

このような時、いち早く広告の社会的責任を全うすべく、広告界がその総力を結集して『JARO丸』を大海へ出帆させたことは、極めて意義深く、かつ賞讃に値する快挙だと申せましょう」。

「私たちは、このような広告の社会的責任を遂行する日本広告審査機構を、さらに大きく育てあげ、私達の"良識の灯"として、高く、明るく灯しつづけていかなければならないと信じます」。

PR活動で知名度アップ

中国新聞(1975.4.17)

社団法人許可の直後、10月20日の「新聞広告の日」を迎え、各新聞がJARO設立のPRに全面的に協力した。

朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞は、それぞれ広告特集で「広告110番」や「広告の番人」といったキャッチフレーズを使ってアピール。毎日新聞は、社説で「広告の自主規制」の必要性を訴えた。ブロック紙、地方紙でも大きく取り扱い、JARO PRキャンペーンが展開された。

その後、日本新聞協会は「新聞広告一口メモ」という広告キャンペーン・シリーズの中でJAROを取り上げ、この広告が各紙に掲載された。

また、1975年4月17日に中国新聞が1ページを割いて行った全面広告は、とりわけ好評で、大きな反響を呼んだ。

中国新聞広告局がJAROのパンフレットを基に制作したもので、「I'm a watch man.」のキャッチフレーズの下にテンガロンハットをかぶった保安官が描かれている。この保安官は、その後、中国新聞の好意でJAROのキャラクターとして使用され、JAROの知名度アップに大きく貢献することとなった。

さらに、「新聞協会報」(日本新聞協会)、「雑誌広告」(日本雑誌広告協会)、「民間放送」(日本民間放送連盟)、「全広連報」(全広連)、「JAAA」(日本広告業協会)、「電通報」(電通)などの専門紙・機関誌も、絶えずJAROのためにスペースを提供した。

放送関係の会員社も、1975年4月21日の「放送広告の日」に当たっては、全国の47テレビ局、33ラジオ局が、時間枠(テレビ15秒、ラジオ20秒)を提供している。3月末までにCMが制作され、各局に配布された。(特集2「 JAROのテレビCM40年史」参照)

最初のテレビCMは、5つの金属球が並ぶ振り子の玩具を使ったものだった。一方の端の球を一つ引っ張って放すと、並んだ球にぶつかり、反対側の球を一つ押し出す。二つ引っ張ってぶつけると、二つ飛び出し、最後にJAROへの手紙の宛先が出る。

このCMは長く放映され、1975年10月16日放映のNHK番組「スタジオ102」でも取り上げられた。「NHK初のコマーシャル放送?」と話題になったこともあり、記憶されている人も多いのではないだろうか。

パンフレット類の制作も、急ぎ、進められた。

1974年内に、

「社団法人日本広告審査機構」(法人案内パンフレット)
「企業はその責任を問われている」(企業向けパンフレット)
「広告の番人、日本広告審査機構とは」(消費者向けパンフレット)
「What is JARO?」(英文リーフレット)

などが完成、関係先に配布された。会員募集のために審査機構の必要性を訴える上からも、また消費者にJAROの存在と機能を知らせるためにも、一日も早い完成が待たれていた。

1975年2月からは会報「JAROレポート」の発行が始まった。

『JAROレポート』は2種類。

一つは毎月発行され、JAROの活動状況、海外情報、小論文などを掲載した会報的な通称「青レポート」(現在の『REPORT JARO』)。会員社のほか、各公正取引協議会、関係団体、新聞、放送、業界紙等に配布された。

もう一つは、会員に対する事例報告を内容とする通称「赤レポート」。こちらは、会員各社のみに配布が限定されている。

JAROの活動を広く知ってもらうことがベースとなるため、PRの徹底は、発足当初の最も重要な業務の一つだった。