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設立40周年記念特集1
設立ドキュメント「広告に真実を」 高い意識と数多の奮闘に支えられたJARO設立

千葉ちよゑ

フリーライター

前史

熱きアメリカ視察

調査団出発時、羽田空港にて
(1970.5.31、『BBB調査団報告書』から)

1970年5月末、24名のBBB(Better Business Bureau)視察団が、米国に向け出発した。

BBBは、1912年に発足した米広告業界の自主的機関である。あらゆる業種を含み、業界の自主規制の監視、指導、苦情の受け付け、処理等の業務を行っている。

団長は、電通の専務取締役を経て日本マーケティング協会の初代理事長に就任した島崎千里。この視察の提唱者でもあった。

島崎は夫人同伴だった。実はこの年の1月、脳血栓で倒れ、半身不随状態に陥っていた。懸命のリハビリのかいがあり快方に向かっていたものの、不自由な病躯を押して介助役の夫人とともに参加したのである。

一行は、2週間にわたって、サンフランシスコ、シカゴ、デトロイト、ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルスと回り、それぞれのBBB事務所を訪問。その組織と運営の実情について視察調査を行った。

副団長は安達義幸(田辺製薬東京支店広報部長)と山崎武敏(日本経済新聞社取締役広告局長)。新聞各社や民放各局の取締役・広告部門長、そして広告会社の取締役といった、広告各分野の代表が参加した。

「今から思うと、燃えに燃えた方たちばかりでした」。
と、唯一の女性参加者だった岡橋葉子は、後に語っている。

「その当時『広告に真実を』という機運が起こってきた時期でした。アメリカにBBBというのがあるのは知っておりましたが、詳しいことは存じておりませんでした。しかし、広告界にはともかくお手本として見てこようという機運ができていて、そして日本にもこのBBB的な団体をつくろうじゃないか、という意気に燃えまして、皆さまとても熱心に勉強して帰ったと思います」。

後年、岡橋マーケティング研究所を設立する岡橋も、当時は若きコピーライター。借金して参加費用を捻出し、個人として参加したという。

電通から参加した高橋一朗(後に同社専務取締役)は、この時を次のように回想している。

「わずか2週間であの広いアメリカの西から東、また西へと3カ所の大小BBBを質問攻めにして駆け回った。おかげで23人分の頭とカバンの中身はBBBだらけの状態で、その直後から一気に盛り上がったような手ごたえがあった」。

日本版BBBの提唱

『アメリカBBB調査団報告書』
(1970年)

視察調査の成果は、A5判、124ページの『アメリカBBB調査団報告書』として、1970年11月に刊行された。

報告書のところどころに、企業の広告が見える。報告書の作成費用等に協力してもらったのかもしれない。「スペシァル化粧品」「マルチステレオ」「テープレコーダー」など、商品名やデザインも、時代の雰囲気をよく伝えていて興味深い。

島崎団長は、巻頭言を「日本BBBの提唱」と題して記し、こう結んでいる。

「“職業を通じて社会公共に奉仕”することを伝統的に誇りとするアメリカの国民性が、60年の間、地道に積み上げてきたBBB活動を、日本の風土に合った新しい運動として1日も早く誕生せしめたいと念願しているのである」。

自主規制の動きが、それまで日本の広告界になかったわけではない。

日本新聞協会の「新聞広告倫理綱領」(1958年)、日本民間放送連盟の「ラジオ・テレビ放送基準」(ラジオ1951年、テレビ1958年)、日本雑誌広告会(現日本雑誌広告協会)の「雑誌広告倫理綱領」(1960年)などが制定されていた。

1962年には、これら業界ごとに制定された広告倫理綱領を総合強化し、その推進に努めることを目指して「全日本広告協議会」が設立された。しかし、この団体も、自主規制について具体的な作業プログラムを持つには至っていなかった。

また、米国への広告視察団がBBBに言及したのも初めてではなかった。

1958年に日本生産性本部主催、アメリカ国務省国際協力局協賛の下に視察団が派遣された。この時の視察は、マーケティングにおける広告の位置付けを明確にし、企業活動における広告の在り方とその水準向上に画期的な成果を収めたとされる。

その成果をまとめたレポート『アメリカの広告』にも、
「広告と販売の不正を排除する倫理運動と、よき広告と販売の育成助長の促進に当たるBBB機関が、民間企業の自主規制によって、強力な機能を果たしているということは、ぜひこれを学んで、日本にもこういう機関を設ける機運を盛り上げなければならない」
との記述がある。

経済成長と消費者問題

なぜ、10年以上経過した1970年になってBBB設立の機運が燃え上がったのか。

 

最も大きな要因は、広告界を取り巻く環境変化だろう。この間、高度経済成長を遂げ大量生産・販売体制を確立した日本には、消費者問題が多数発生していた。

にせ牛缶事件(1960年)、カネミ油症事件(1968年)や人工甘味料チクロの有害性問題(1969年)、カラーテレビ二重価格問題(1970年)などである。

消費者は、表示・広告表現・品質などについて広範囲に発言するようになり、時にはジャーナリズムや政党と組んで反企業キャンペーンに乗り出すような状況だった。

米国のケネディ大統領が「消費者の4つの権利」を宣言したコンシューマリズムは日本にも波及していた。1962年には景品表示法が、1968年には消費者保護基本法が制定された。1970年には消費者啓発、消費生活相談、商品テスト等を行う機関として、国民生活センターが発足している。

1970年11月に国民生活審議会が内閣総理大臣に提出した答申にも、

「自主規制の監視、指導、苦情処理等の機能を有し、多数の業界が参加する業界の自主的機構の組織化を進めるべきである。この場合において、アメリカにおけるベター・ビジネス・ビューローによる活動が有益な示唆を与えるものと思われる」
という記述がある。

 

当時、公正取引委員会委員だった後藤英輔は、後日、行政の動きを次のように説明している。

「その時に、広告活動というのは法律のみによって規制できるものではない。法規制の支えとして自主規制も期待しないといけない。景品表示法をつくる時に、業界の自主的な広告のルールを期待して、法律の枠の中に公正競争規約制度と、それを運用する公正取引協議会という制度として入れようと考えた」。